大地の恵み大谷石。石材のクリエィテブチームが制作、創作する内装材、外装材をあなたへ・・・

大谷石産業株式会社は、大谷石内外装材協同組合に所属しています。


大地の恵み「大谷石」をお求めやすい価格で販売

大谷石を中心に各種石材をお求めやすい価格にて加工、施工、販売いたしております。
大谷石地下採掘場「石の里希望」から採掘される大谷石は、その独特の風合いと温かみのある質感から、
旧帝国ホテルを筆頭に数多くの建築物に使われてきました。大谷石産業株式会社では、重厚感や風情、心地よさや
癒しの効果をはじめ、魅力たっぷりの大谷石を使った暮らしのご提案をしています。

最新情報

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ご相談から工事完了までの流れ

ギャラリー/施工例

 当社の施工例をご紹介します。
 自然の重厚感、風情、落ち着き、優しさ、癒しの効果など、大谷石の魅力がつまった施工例です。
 安心の技術をご提供させていただいております。

和牛ステーキ桜の施行例 ベルステーキの施行例
和牛ステーキ桜 ベルステーキ

商品石材

大谷石テーブル 植木鉢
大谷石テーブル 植木鉢

 当社で取扱っている様々な石材をご紹介いたします。
 重厚感や落ち着きを感じられるこれら商品は、和洋を問わず調和します。

個性的で美しい、大谷石の表情

大谷石は、加工方法によって表情が変わります。
豊富なバリエーションはそれぞれ個性的で、
さまざまなシーンを美しく演出します。
また、心地よさ、癒しの効果はもちろん熟成効果や音響効果まで、
大谷石には魅力的なチカラがあります。

バリエーション豊かな大谷石の加工例


大谷石の優れた効果 大谷石のチカラ

  • 大谷石の持つゼオライト 大谷石の持つゼオライトの力が、心地よさと健康をお届けします。

    ゼオライトは、スポンジ状の小さな穴を持つ鉱石。大谷石に含まれるゼオライト成分は、多数のマイナスイオンと強い遠赤外線を放出、癒しや熟成の効果を発揮します。

    ゼオライト
  • マイナスイオンのよる癒し効果 癒し効果が高く、リラックスできる良質な空間を演出します。

    大量のマイナスイオンを発生。細胞の活性化や免疫強化、自律神経の調整、精神安定、空気の清浄化などさまざまな有効作用があり、リラックス空間を創ることができます。

    大谷石で発生するマイナスイオン

大谷石はどのようにしてできたのか         栃木県立博物館主任研究員:布川 嘉英

大谷石は、宇都宮市大谷付近に分布する大谷層軽石凝灰岩の石材名である。
岩相は流紋岩質の軽石凝灰岩で、緑色に変質している。
層中にしばしば流紋岩礫や炭化木が含まれる。
また、ミソと呼ばれる粘土化した軽石が層状に配列している。
全体に発砲した軽石を多量に含み、火に強く熱を通しにくい。
また、石質が柔らかく、加工しやすいことなどを特徴とし、
日本の建築用軟石材の代表的銘柄といわれる。

地質年代でいう前期~中期中新世(今から約2500~1100万年前)は、
ユーラシア大陸の東縁辺の一部が分離して日本列島と日本海を形成した時期であり、
また、地球規模で海面上昇が起こった時代である。
この時代の日本列島は、広範囲にわたって海に覆われ、折しも地殻変動が活発な時期であり、
各地で海底火山活動による膨大な軽石など火砕岩類が噴出した。
これらは海水によって変質し緑色に変色しており、
これらを総じてグリーンタフ(緑色凝灰石)と呼んでいる。
グリーンタフは、北海道東部、北海道西部から東北地方を経て関東北部、
フォッサマグナ地域、北陸から山陰、九州の一部、琉球列島に断続的に分布しており、
これらの地域をグリーンタフ地域と呼んでいる。

宇都宮付近は、東北地方から続くグリーンタフ地域の南限にあたる。
現在確認できる地層から推測される大谷石の形成史は次の通りである。
日本列島が現在の位置に形成されつつある中期中新世の初期、八溝山地、
足尾―下野山地が栃木県の東西に連なり、宇都宮付近では古賀志山―半蔵山の
基盤も高まりとして存在していたと考えられる。
鹿沼丘陵、半蔵山、宇都宮北方の笠松山―宮山田で火山活動があり、
安山岩質溶岩類を噴出した。

大谷付近一帯は、栃窪、古賀志山、半蔵山、笠松山に囲まれた
南東に開く湾を作っていたと考えられる。
その後、流紋岩質の海底火山活動が起こり、大規模な水中火砕流が大谷付近の湾を埋めて大谷石が堆積した。
同質の火砕物は、鹿沼市の深岩層、宇都宮丘陵の長岡層として分布し、県東部の荒川・那珂川流域にもこの時代の凝灰石が露出している。
大谷付近で層厚200mを超える軽石凝灰石だが、これらの火砕物がどこで噴出したものか明らかになっていない。

天然ゼオライト              足利工業大学総合研究センター客員研究員工博:磯 文夫

栃木県から産出する鉱物資源を中心に産業副産物及び農業副産物の機能化と有効利用の研究を行いました。その一環として大谷石の利用拡大と新用途拡大を図ることを目的に、多様な 視点から検討しました。

大谷石との出逢いは昭和45年、漆喰(ドロマイトプラスター)の改良研究でした。当時、建築工法が変化し、工期の短縮が叫ばれていました。そこで漆喰に自硬性を付与するため、大 谷石の微粉に硫酸アルミニュウム水溶液を加えて混練し、壁に塗るとカルメラのように膨れ上がりました。原因を調べると、大谷石は天然ゼオライトを含む“多機能材料”であること が分かりました。ゼオライト(沸石)は結晶性含水アルミノケイ酸塩で、その結晶構造に基づくナノオーダーの孔径を有し、吸着、イオン交換、固体酸性などの特性を持ち古くから 興味を持たれてきました。

ゼオライトには天然ゼオライトと合成ゼオライトがありますが、需要は合成ゼオライトの方が圧倒的に多いのが現状です。ここでは“大谷石”を天然ゼオライトとして有効利用すると いう視点から、著者らの行った研究を中心に述べます。

大谷石は新第三紀の海底火山噴出物起源の堆積岩で、一般に緑色凝灰石呼ばれています。太田、須藤ら及び著者らの鉱物学的研究により、ゼオライトの種類はクリノプチロライトが主 成分でモルデナイトも一部存在し、夾雑物として長石、石英、モンモリロナイトを少量含有することが分かりました。 大谷石材協同組合では昭和45年活路開拓調査補助事業を行い、大谷石の製造過程で生じる切粉の有効利用を大谷石に含まれるゼオライトに着目し、大谷石を地域別に採取してゼオライ トの種類とその含有量、形態(走査型電子顕微鏡)などについて調査研究を行いました。その結果、大谷石は天然ゼオライトとして利用できることが明らかになりました。 大谷石の科学的利用研究としては藤郷らがメチレンブルーなどの吸着報告をしています。

著者らは主に次のことについて検討しました。
(1)大谷石の鉱物組成と吸着特性〔陽イオン交換容量(1.38―1.55/g)、アンモニウムイオン及びメチレンブルー吸着量の高いのは“みそ”(モンモリロナイト)の影響による〕
(2)アロフェン(鹿沼土)あるいは消石灰との併用によるアンモニウムイオンとリン酸イオンの同時吸着
(3)ペントナイトとの併用による乳化廃油処理
(4)触媒特性(ビニルモノマーの重合開始能及び得られた重合物の特微)
(5)アロフェンとの混合・成形・焼成(1000℃)による多孔質セラミックスの創製
(6)発砲特性(600℃で仮焼)を利用した多孔質セラミックスの作製
(7)各種アルカリ水溶液との水熱処理による合成ゼオライトへの変換
これらの研究から多くの知見を得るとともに、いくつかの新しい事実を見出しました。

また、実用化した主なものとしては
(1)微生物を担体とした環境にやさしい土壌改剤
(2)空気清浄機
(3)透水性・保水性セラミックスを開発・提供
以上、天然ゼオライトとしての大谷石の有効利用とその高性能化に関する著者の研究を中心に述べました。この小文が些かでも大谷石を利用した新しい機能性材料の開発に貢献できれ ば幸いです。            

大谷石利用の歴史                         大谷石研究会 常任理事:柏村 祐司

大谷石の利用には、切り出した石を構造物に組立て用いたもの、大谷石の岩山そのものを用いたもの、切出した跡地を利用したものなどがある。大谷石の岩山そのものを用いたもが最も古 く、大谷寺洞穴遺跡がある。遺跡は大谷寺の建物を覆う洞穴内に位置するもので、初め住居として用いられ縄文時代草創期の土器が出土している。奈良時代から鎌倉時代にかけ洞穴壁面に 千手観音像等の磨崖仏が彫られ、仏教の聖地となり、大谷寺へと続く。

大谷石利用の中で圧倒的に多いのは、切出した石をある種の構造物に組立て用いたものである。大谷石が石材としては比較的やわらかく、切出し及び加工が容易であり、かつ、防火性に優 れていたからである。この種のもので最も古いものに、縄文時代の竪穴式住居の炉石がある。古墳時代では古墳石室に利用され宇都宮市下砥上愛宕塚古墳、石橋町愛宕塚古墳、壬生町車塚 古墳、同吾妻屋古墳等が知られる。奈良時代では、下野国分寺の基壇等に凝灰岩の利用が見られ、宇都宮市と上三川町境の上神主・茂原官衙遺跡では建物の基礎石に用いられている。鎌倉 ・室町時代のものでは、大谷寺の五輪塔、国分寺の紫塚五輪塔が知られる。 ところで、歴史が古くなればなるほど、それが大谷石であるかどうかは判別しにくい。栃木県内には、大谷石と同様の緑色凝灰岩が各地で産するからで、思川流域での凝灰岩の利用につい ては、大谷石とはいわれているものの、鹿沼市深岩で産する深岩石と思われるものもある。 大谷石が本格的に利用されるのは、江戸時代に入ってからである。本田正純城主在任期間中(1619~1622)は、宇都宮城普請で大谷石を切出し利用したといわれる。また、宇都宮の街中の 堀割の橋にも大谷石が使用された。

江戸時代の大谷石切りは、農間渡世として行われ、享保5年(1720)には、下荒針村だけで49名が石切りに従事した。この頃になると、大谷石の利用も石垣、石蔵、墓石、石塔等と多様 化する。特に石蔵が目立ち当初は板状の石を貼った貼石構造で、屋根瓦も石屋根とする場合も多い。大規模な利用では、弘化3年(1846)宇都宮二荒山神社の石垣修理がある。 明治期以降、交通機関の発達により大谷石の輸送が飛躍的に増大し、生産利用も盛んになった。石蔵は従来の貼石構造から積石構造へ変化し、広範な範囲で作られ、また、鉄道の発達に伴 い駅構内のホームや橋梁に利用された。こうした中、大正12年(1923)関東大震災の際に、大谷石造の旧帝国ホテルが焼け残ったことから通説では大谷石の防火性が見直され、利用に拍 車がかかった。戦前にはカトリック松が峰教会や日本聖公会宇都宮聖ヨハネ教会等教会建築にも大谷石が利用された。 戦後は、一時農協倉庫の大谷石利用が目につく。一方、高度経済成長に伴い宅地造成、工業団地造成が盛んになると、大谷石が土止め用の石垣や石塀等に大量利用され、昭和30年代には 生産量も年間80万トンを越える大谷石最盛期を迎えた。

切出した跡地の利用では、戦争中の軍需工場、戦後の大谷資料館のような産業遺跡としての見学施設、あるいは酒、ハム、米等の食糧貯蔵庫等があり、大谷石の新たな利用として注目され ている。

大谷石の採掘と輸送                       大谷石研究会 常任理事:柏村 祐司

大谷石の採掘は、掘り方では平場堀りと垣根堀り、採掘場の形態からでは露天掘りと坑内掘り、道具の相違からでは手掘りと機械掘りとわけることができる。 採掘の変遷からいえば、当初、露天掘りによる平場掘りが行われ、その後、垣根掘りが導入されることによって坑内掘りが盛んとなり、 また、当初手掘りであったものが、第二次世界大戦後チエンソウが導入され機械掘りへ変わった。

平場掘りは、石の層を上から下に垂直に掘り下げる工法で、垣根堀りは石の層を真横に水平に掘り進む工法である。 大谷石は、石質が良質な層と悪い質の層とが交互に重なっているが、平場掘りは石質の悪い層も掘り下げることとなり、効率が悪かった。 このような状況の中にあって、大正時代初期伊豆青石の産地である静岡県伊豆の国市長岡から垣根掘りがもたらされた。 以後、平場掘り、垣根掘りとが組み合わされ、効率よい大谷石の採掘が行われるようになった。

一方、垣根掘りが導入されると、採掘の範囲が広がり、従来の露天掘りのみならず地下深くまで掘り進む坑内掘りが盛んになり、 同時にそれまで天気に左右されていた大谷石採掘が天気にかかわらず昼夜にわたって行われるようになったのである。

機械掘りが登場したのは、昭和30年(1955)からである。前年、大谷石石材協同組合は、横浜市の竹村商会を通じてフランスから 石材動力切断機(チエンソウ)一基を購入した。当初、大型のPPK125と小型携帯用のPPK40の二基を購入予定であったが、 予算の関係で大型のみを組合で購入し、小型の機械は、屏風岩石材が引き取ったという。昭和35年頃になると大谷全域に 機械掘りが普及し、大谷石採掘が飛躍的に伸びたのである。なお、1日の平均採掘量は、五十石(ごとう石・5寸×1尺×3尺)の 場合、手掘りで10本、機械掘りで50本であったという。

大谷石の市場への輸送方法は、おおむね馬の背、荷車、馬車、人車軌道、軽便鉄道、トラックの変遷をたどっている。 馬の背による輸送は、江戸時代から明治初期にかけてである。馬1頭で運ぶ荷物の量を1駄といい、大谷石の場合、 五十石(1本あたり70㎏)で左右に1本ずつ計2本(140㎏)、三十石(1本あたり42㎏)で左右に2本ずつ計4本(68㎏)であった。 なお、江戸時代には江戸市中隅田川沿いに大谷石を扱う問屋が11軒あったという。 大谷からは馬の背により鬼怒川べりの石井河岸まで運ばれ、それ以後は筏に乗せて運んだものと思われる。 馬車が登場するのは明治期になってからで、それも中期までの短期間であった。 馬の背の場合の15頭分の輸送量があり、五十石で30本、三十石で60本一度に運べたという。

人車軌道の開通は、明治30年(1897)で、宇都宮軌道運輸株式会社による西原から荒針駅経由瓦作駅間と荒針駅経由立駅間である。 人車軌道は、貸車と客車の両方がありともに車夫が押すもので、貸車は1両積みで五十石で24本運ぶことができたという。 人車軌道は、その後材木町、及び鶴田駅まで延長され、他の路線も敷設された。人車軌道が登場し、しかも日光線と結合される ようになると、大谷石の輸送効率は一段と向上し、販路も関東一円に拡大した。厚さのある重量物の大谷石を積み重ねた積石工法の 石蔵が普及するのは、この頃である。

軽便鉄道は、宇都宮石材軌道株式会社が鶴田・荒針間に敷設したもので、大正4年(1915)に開通した。 大正期に入ると大谷・宇都宮間に乗合バスが運行され、乗客がし次第にバスに奪われる。 一方、トラックが徐々に普及し、昭和6年(1931)東武宇都宮線開通を機に軌道は廃止され軽便鉄道のみが残ったが、 その軽便鉄道も昭和39年(1964)廃止された。 その後の大谷石の輸送はもっぱらトラックが中心となっている。            

大谷石の構法                           宇都宮大学工学部講師:海老原 忠夫

大谷石の魅力、それは天然石として肌柔らかさを身近に感じ安らぎを覚える石材であるからではないかと思う。 あの控えめな落ち着きと、渋みを帯びた優雅な建物や塀や門柱、団地の擁壁に見る美観は何か私達の琴線にふれる雅趣が伝わってくる。 このような特性を持った大谷石は野州石文化の中核となり石の利用は多種多様で、蔵、門、塀、擁壁、基礎、鳥居、墓、観音像、狛犬等に使われてきた。 特に大谷石の建築物は土地の名石工の技術と相成って多くの石造建築群を生み出されてきた。 このような大谷石の石造建築物の例は全国的にも余り無いと言われている。 とりわけ石で作った瓦を使用する屋根瓦は、野州石文化の傑出した石造構法だと考えられている。 このような野州石造文化圏と大谷石にとって試練の時があった。 それをどのように先人達は乗り越えて来たかを振り返ってみる。

その1つは昭和24年12月26日午前8時27分、今市町を中心に震度6の烈震に襲われた。 その様子は「朝の静寂を破って突如地鳴りと共に大震動が起こり、平和郷は瞬時にして、損壊の騒音、噴き上がる土砂煙り、逃げ惑う人の群れの惨状を現出したのである。 この為今市市を中心として付近11カ町村約50方里に亘って173名の死傷者と1万2千に上る屋根の倒、破壊を生じ瞬く間にこの被害を受けたこととて3万の避難民はもとより県民ひとしく愕然とし、しばし呆然自失の体であった」。 家屋の被害について特に注目すべきことは、本県宇都宮近在城山村より極めて耐火力に富んだ石材大谷石が産出するが、震災地はこれに近接しているので、 同地方の住家または倉庫には石材を用いたものが多く、しかも本県は久しく大地震がないのでいずれも耐震的構造に欠くる結果、そのほとんどが破壊されていることである。 このような惨状を目の当たりにして、大谷石造建築物は地震に対してもろいという疑念を抱かせ、このまま放任すれば、大谷石建築を忌避する傾向を免れないことが予想された。

破壊状況を調査研究の結果、大谷石造として設計と施工に注意しさえすれば、かなりの耐震的な構造とすることができることがわかった。 ただちに、今市町に建設主張所が設けられ、建築指導が実施されると共に、県建築課は建設省と建設省建築研究所の協力のもと、石造建築の耐震補修要領講習会を催して石工と一般の人々に周知して復興に努力した。

昭和30年代の中頃は、住宅ブームが起こった。 多量の大谷石が擁壁用材として各地に出荷された。 実に生産量の70%にもなった。 だがそれに伴い大谷石の擁壁の崩壊事故も多発した。施工者の粗悪な施工によるものが多かった。 昭和36年、安全な住み良い住宅の造成が望まれ、「宅地造成等規制法」が施行された。 大谷石材協同組合は、一丸となって全国の擁壁の需要者に安全で安心出来る大谷石積構法の開発に取り組んだ。 開発には今市地震の教訓も生かされた。 建設省建築研究所の指導のもと、「目地モルタルを使用する大谷石積造擁壁」を開発し、昭和43年建設大臣の認可を受けた。 昭和53年6月、宮城県沖地震発生、ブロック塀、石塀、門柱の倒壊によって貴重な人命が失われた。 石塀等の崩壊によってこのような被害が出ることは予想している者は少なかった。 建築基準法の規制強化検討が進められ、大谷石塀は高さ1.2mまでに制限される。 大谷石の殆どが石塀、擁壁、石蔵等に使用されている現況だった。 大谷石塀は高さ1.2mを超える需要が多かった。 大谷石材協同組合は、大谷石の需要者に対する使命感をもって「より安全で堅牢、優美な石材」を目指して従来からある大谷石積に擁壁の構法を生かしたトータルカットという 特殊な加工をした“トータルカット大谷”「四側面溝切り、穴明き」の完全加工品を考案した。 建設省の主導のもとに、県、市、組合が一体となって耐震実験に取り組み「震度7」にも耐えることを証明した。昭和56年建設大臣の認可を受けた。 この工法によれば高さ1.8mまでの大谷石塀を構築することができるようになった。 「トータルカット大谷」の塀が普及し宮城県沖地震のような悲しい経験は二度と繰り返さないことを願っている。

大谷石はとても優れた素材で、これまで見てきた通り、「大谷石」に問題があったのではなく、問題は利用、活用する側にあった。幾多の試練を乗り越えて来た。 これからも私達は先人の培った野州石文化をどう守り後世に伝えていくかこれもまた試練の時だと言える。

大谷石をめぐる課題と展望                 大谷石研究会 副理事長:塩田 潔


『現代建築へのアンチ・テーゼとしての素材・大谷石』

古代より人間と石の結びつきは、道具として、神への祈りの舞台装置として、建築の素材として今日までに至っている。 従来、大谷石は石蔵、石塀、宅地造成用の擁壁等大量に使われてきたが、今はむしろ、インテリアやエクステリアの素材として新しい価値観も見出され、 加工技術の発達によりその表情も多様な可能性を持つようになった。 又、古い石蔵の空間や手堀り時代のつるはしの跡が残る質感が、レストラン、カフェ等そこに集まる若者には鮮烈に写るようだ。

大谷石の成分の中の天然ゼオライトが人間にとって癒し効果があり、又水や植物の鮮度を保つ効果があり、様々な分野で利用され、あるいは試行されている。 特に、大谷石空間(採掘場跡や石室)で熟成された日本酒、ワイン、生ハム、納豆等は、一味もふた味もマイルドになって私たちの舌を楽しませてくれる。 これが今、密かなブランドになっている。

藤森照信氏によると建築は今、限りなく透明に、限りなく軽く、そして細く0(ゼロ)に近づいているそうだ。 氏が最近、土や変木や石を使ってやや狂気じみた(失礼)建築を創り始めているのは、そのような時代の流れを認めつつも、歴史学者として少しでも歴史を面白くしたいと 思っているからだそうである。 自然の素材よりも、科学や化学を追いかけたのが20世紀という時代であった。 今も、建築は特に住宅は、高性能、高気密、そして安全、安心を獲得するために何かのシェルターのように人間を殻に閉じ込めてしまった。 藤森氏の創り続ける作品郡は、それらに対する強烈なアイロニーであり、アンチテーゼである。 その藤森氏が数年前、大谷の露天掘りの採掘場を訪れた。その時、氏は大谷石の素材感を視野でなく、嗅覚で感じ取り「石の香り」を感じたそうだ。 大谷石は、藤森氏が創るアンチテーゼの建築の素材としても、郡を抜いた存在であろう。

『主役になれない石、他とのコラボレーションで活きる石・大谷石』

F・Lライトが旧帝国ホテルに使用し、一躍大谷石が注目を浴び我々の心を捉えて止まないのは、スクラッチ煉瓦及びテラコッタとの見事なコラボレーションがあったからである。 私は、改めてライトの感性の素晴らしさに敬服している。スクラッチ煉瓦、テラコッタなくして「大谷石建築」は存在しなかったのである。 近年、素材としての大谷石が様々な分野で使用されてきており、行政サイドも奨励している事は大変喜ばしいことである。 しかし、やたら大谷石を使えばよいというものでもない。使い方を誤ると、せっかくのすばらしい素材を殺すことになるし、将来酷評されることになる。 大谷石は特に、他の素材とのコラボレーションで活きる素材である。旧帝国ホテルは、スクラッチ煉瓦やテラコッタを引き立てつつ、自ら引き立ってしまった大谷石建築である。

大谷石は、樹木の「緑」や、風にそよぐ「竹」の柔らかさとの相性が見事との評価が高まっている。 又、「光」の演出効果、あるいは「音(クラシック、ジャズ等のコンサートの空間)」との相性もすばらしく、さらなる多次元での可能性が高まっている。 しかしながら、建築基準法による組積造としての制約や、石としてのもろさ(風化、凍害)、高価格といったマイナス要素も様々な可能性にたいしての足かせになっている。

もろさに関しては、化学的な解決策(硬化剤等)により克服しつつある。 今はむしろ、基準法に関わらないインテリアやエクステリアの分野での使用方法に活路を見出しており、最大の特徴である大谷石の持つ、 やわらかさ、あたたかさ、やさしさが引き出され、その付加価値が高まり明るい未来が開かれてきたと実感している。